インスタに載せられないほどの幸せって、意味あるの?
かつての私は、本気でそう思っていました。
24時間インスタに依存し、誰かのキラキラした日常と自分を比べては劣等感で心を削る日々。
アプリを消して距離を置いた時期もありましたが、そこで待っていたのは心地よさと、それ以上の「孤独」でした。
実体験から辿り着いた画面の外にある“体温の宿る幸せ”について着飾らない本音を綴ります。
「インスタ映え」を追い求めて心が死んだあの日

当時の私は、スマホの通知ひとつでその日のテンションが決まるほど、重度のインスタ依存症でした。
大学の講義中も、バイトの休憩中も、寝る直前までタイムラインをスクロール。
そこにあるのは、お洒落なカフェで笑う友達、海外旅行を満喫するインフルエンサー、そして「選ばれた人」にしか許されないようなキラキラした日常。
それらを見るたびに、私の心は黒いモヤで覆われていきました。
「映え」のために生きる地獄
どこかへ出かけても、楽しむことより「どう撮るか」が最優先。
- 料理が運ばれてきても、最高の角度で撮れるまで食べない。
- 友達との会話より、ストーリーの加工に必死。
- 載せる写真がない日は、自分の人生がひどく空っぽに思えて不安になる。
そんな風に必死に作り上げた「充実した自分」を投稿し、誰かからの「いいな!」「おしゃれ!」というコメントを待つ。
でも、通知が止まった瞬間に襲ってくるのは、猛烈な虚無感でした。
画面越しに見る「幸せ」の猛毒
一番辛かったのは、友達の幸せを素直に喜べなくなったことです。
- あの子、またいいもの食べてる
- どうして私だけ、こんなに冴えない毎日なんだろう
比較という毒は、じわじわと私の自尊心を蝕んでいきました。
いつの間にか、インスタは「楽しむためのツール」ではなく、「他人と比較して自分が劣っていることを確認するための鏡」になっていたんです。
「こんなことして、何の意味があるんだろう?」
そう気づいた時、私の心はもう限界でした。
画面の中の偽りの幸せを追いかけ続けた結果、私のリアルな心は完全に死んでいたのです。
インスタを辞めて気づいた静かな幸せとその先の落とし穴
画面の向こう側の喧騒をシャットアウトするため、私はついにアプリを削除しました。
スマホを置いた瞬間に訪れたのは、信じられないほどの「静寂」でした。
誰にも邪魔されない「自分だけの時間」
インスタを辞めてすぐの頃は、驚くほど心が軽やかでした。
- 冷めないうちに食べる、温かいごはんの美味しさ。
- スマホを構えず、ただ夕日が沈むのを眺める贅沢。
- 誰の視線も気にせず、お気に入りの本を読みふける午後。
「誰かに見せるため」というフィルターを通さずに見る世界は、こんなにも鮮やかだったのかと感動しました
タイムラインの速い流れから降りて、自分のペースで歩く心地よさ。
これこそが本当の幸せなんだと、心から確信していたんです。
忍び寄る「落とし穴」:1人の幸せに飽きる日
しかし、そんな穏やかな日々は長くは続きませんでした。
数ヶ月が経つ頃、私の心に少しずつ「影」が差し込み始めます。
あんなに心地よかったはずの「1人の時間」が、次第に「ただの孤独」へと変わっていったのです。
- 共有相手がいない虚しさ: 素敵な景色を見ても、美味しいものを食べても、それを分かち合う相手がいない。
- 社会との断絶感: 友達が今どこで何をしているのか分からない。自分が世の中から忘れ去られてしまったような、形容しがたい不安。
- 刺激の欠如: インスタのキラキラした刺激を否定したはずなのに、平坦すぎる日常に耐えられなくなっている自分。
「自立した幸せ」の限界
「1人で完結する幸せ」は、確かに尊いものです。
でも、人間はそれだけで満足できるほど強くはありませんでした。
インスタを辞めて人との繋がりが薄くなった結果、私は「誰にも知られずに生きている自分」の存在価値を見失いかけていました。
1人での幸せに全然満足できなくなり、また別の角度から心が病んでいくのを感じたのです。
「インスタに載せる幸せは偽物だけど、1人で抱える幸せは……なんだか寂しすぎる。」
この「落とし穴」に落ちたことで、私はようやく気づきました。極端に「見せること」を拒絶するのではなく、もっと「血の通ったリアルな繋がり」が必要なのだということに。
幸せに「意味」を求めるのを辞めたら、道が開けた
「1人でいる幸せ」さえも、いつの間にか「これで正解なのかな?」と自問自答するようになっていました。
インスタに依存していた頃は「人に見せるための幸せ」を追い求め、辞めた後は「1人で完結する高尚な幸せ」を自分に強いていた。
結局、どちらのステージでも私は「幸せの正解」を探して、頭でっかちになっていたんです。
「意味」を求めるのを辞めた瞬間
ある日、ふと気づきました。
「インスタに載せられない幸せに意味はあるのか?」なんて悩んでいる時点で、私はまだ誰かの評価という物差しを捨てきれていないのだと。
「意味なんて、別になくてもいいじゃないか」
そう開き直った瞬間、ふっと肩の力が抜けました。
誰かに証明する必要も、自分の選択が正しいと自分に言い聞かせる必要もない。
ただ「今、目の前の空気が美味しい」とか「誰かと話して心が温かい」と感じる。
その「手触りのある感覚」だけを信じてみようと思ったんです。
思考から「行動」へのシフト
幸せを「考える」のを辞めてから、私の行動は変わりました。
1人で部屋に閉じこもり、内省に耽る時間はもう十分。
次は、自分の外側にある「体温を感じる場所」へ手を伸ばしてみることにしたのです。
- 「映え」を気にしなくていい、泥臭い人間関係。
- 画面越しではない、リアルな声のトーン。
- 計算ではない、偶然の出会い。
「意味」という呪縛を解いた先には、これまで見落としていた「生身の人間としての繋がり」が待っていました。
【体験談】画面の外にある「体温のある繋がり」
幸せに「意味」を求めるのをやめた私が最初にしたこと。
それは、スマホを置いて「物理的に人がいる場所」へ足を運ぶことでした。
「映え」の対極にある、泥臭いコミュニティ
勇気を出して参加したのは、地元の清掃ボランティアや未経験歓迎の社会人フットサルサークルです。
そこには、インスタのフィルターでは決して表現できない「生身の人間」の姿がありました。
- 汗だくになって作業するおじさんの笑顔。
- プレーを失敗して「ごめん!」と笑い合う瞬間。
- 休憩中にコンビニのアイスを突きながら話す、なんてことのない世間話。
ここには、画角を気にするカメラも、加工アプリも存在しません。
あるのは、ただその場にいる人たちと共有する「今、この瞬間」だけ。
「誰かに見せるため」ではなく、「自分が楽しむため」に動く心地よさは、インスタに依存していた頃の私には想像もできないほど、温かくて重みのあるものでした。
マッチングアプリで出会った「本当の幸せ」
さらに私は、一歩踏み込んでマッチングアプリも使い始めました。
以前の私なら「彼氏とのデート風景をインスタに載せなきゃ」と気負っていたかもしれません。
でも、今の私は違いました。
出会った恋人と過ごす時間は、驚くほど「映えない」ものです。
- 家で一緒にダラダラしながら、どうでもいいバラエティ番組を見て笑う。
- 散歩中に見つけた、名前も知らない野花に二人で立ち止まる。
- 沈黙が流れても、それが気まずくない空気感。
スマホを一度も取り出さないデート。
誰にも報告しない、二人だけの秘密の会話。
そんな「インスタに載せられないほど地味な日常」の中にこそ、私がずっと探し求めていた「本当の幸せ」が宿っていました。
「見せる幸せ」から「感じる幸せ」へ
リアルな繋がりの中に身を置いて気づいたのは、幸せとは「消費」するものではなく「蓄積」するものだということです。
「いいね」の数で一喜一憂する刹那的な快感は、すぐに消えてしまいます。
でも、誰かの手のぬくもりや、直接聞いた笑い声、心からの「ありがとう」という言葉は、時間が経っても私の中に消えない灯(ともしび)として残り続けています。
画面の外には、確かに「体温」がありました。それだけで、もう十分だったんです。
まとめ
「インスタに載せられない幸せに意味はあるのか」
その答えは、イエスです。
むしろ、誰にも証明できないほど地味で、言葉にならない体温のある瞬間こそが、あなたの人生を芯から支えてくれます。
映えや比較という物差しを捨て、目の前の人と笑い合い、手触りのある日常を慈しむこと。
意味なんて後付けでいいんです。
スマホを置き、心から「心地よい」と感じる瞬間を、あなた自身のために選んでみてください。



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