アドラー心理学の青い本を読んでみたけど全く共感できない若者の主張。

アドラー心理学の青い本を読んでみたけど全く共感できない若者の主張。

「嫌われる勇気」を読み終えた後、救われるどころか「結局、屁理屈じゃない?」とモヤモヤしていませんか?

トラウマを否定し、承認欲求を毒とするアドラーの主張は、真面目に生きる若者ほど「一休さんのトンチ」のような強引さを感じるはずです。

本記事では、内容を理解した上で敢えて「共感できない」と断言。

現代社会においてアドラー心理学がなぜ机上の空論に聞こえるのか、その違和感の正体を徹底的に言語化します。

目次

アドラー心理学が「一休さんのトンチ」に見える理由

アドラー心理学を読んでいると、鮮やかな解決策を提示されているようでいて、その実「言葉の定義を勝手に書き換えて、問題をなかったことにしているだけ」と感じる瞬間が多々あります。

これが、私が「一休さんのトンチ」だと感じる最大の理由です。

具体的にどのあたりが「トンチ」臭いのか、3つのポイントで紐解きます。

「トラウマ」を目的論で消し去る論理

一休さんが「屏風の虎を追い出して」と言われ、「捕まえるから追い出せ」と返したように、アドラーは「過去の傷」という実体を、目的という言葉で消し去ります。

「引きこもるのは、外に出たくないという目的があるからだ」

という主張は、苦しんでいる本人からすれば、原因を解決せずに「あなたの意志の問題だ」と言葉の定義をすり替えられたように感じ、現実逃避のトンチに聞こえるのです。

「課題の分離」という冷徹な境界線

「橋を渡るな(端を通るな)」と言われて真ん中を歩くように、アドラーは人間関係の板挟みを「それはあなたの課題ではない」という極論で突破します。

しかし、社会は利害関係が複雑に絡み合う場所です。

「相手がどう思うかは相手の課題」と切り捨てるのは、一見鮮やかですが、現実の責任や感情のしがらみを無視した強引な屁理屈に見えます。

解決というよりは、対話そのものを放棄するトンチのように映るのです。

「承認欲求の否定」という本能への無理難題

「欲しがるから苦しい、捨てればいい」という教えは、空腹の人に「食欲があるから苦しいのだ」と説くようなものです。

承認欲求は生存本能に近いものであり、それを「捨てろ」と命じるのは、実現不可能な無理難題を突きつけて「できないのはお前の勇気が足りないからだ」と突き放す構造になっています。

この「前提条件を無効化する」戦術が、多くの若者にとって「理屈は通るが納得はいかないトンチ」と感じる正体です。

共感できないポイント①:トラウマを否定する「目的論」の暴論

アドラー心理学の根幹であり、最も「共感できない」と批判が集まるのが「トラウマの否定」です。

哲人は、過去の事件が今の不幸を決めるのではなく、人は「不幸であること」を選択しているのだと言い切ります。

しかし、これは現代の若者からすれば、あまりに乱暴な「生存者バイアス」の押し付けにしか聞こえません。

例えば、過去にいじめを受けた経験がある人が、大人になっても対人恐怖に悩んでいるとします。

アドラーはこれを「外に出たくないという『目的』のために、過去の恐怖を引っ張り出している」と一蹴します。

しかし、脳科学の視点から見れば、強烈なストレスは脳の扁桃体を変質させ、意志とは無関係に身体が反応してしまうものです。

それを「あなたの目的だ」「勇気の問題だ」と片付けるのは、骨折している人に「走らないという目的のために、骨折を利用している」と説教するようなものです。

この目的論が「トンチ」に見えるのは、「本人が苦しんでいる現在進行形の痛み」を無視して、結果論から原因を再定義しているからです。

論理の辻褄は合っているかもしれませんが、そこには血の通った共感が欠如しています。

原因論を否定し、すべてを「個人の意志(目的)」に帰結させる考え方は、一見ポジティブに見えて、その実、全ての責任を被害者に押し戻す「究極の自己責任論」という毒を孕んでいます。

共感できないポイント②:課題の分離は「人間関係の放棄」ではないか?

アドラー心理学の中でも、人間関係の特効薬として語られるのが「課題の分離」です。

「これは誰の課題か?」を考え、他者の課題には介入せず、自分の課題に誰一人として介入させない。

一見、クールでスマートな解決策に見えますが、実社会でこれを徹底しようとすると、それはもはや「人間関係の放棄」や「冷酷な個人主義」に他なりません。

例えば、仕事で部下がミスをしたとき。

アドラー流に言えば「ミスを反省し、成長するかどうかは部下の課題であり、上司の課題ではない」となります。

しかし、現実はどうでしょうか。

部下のミスはチーム全体の損失であり、その責任を負うのが組織というものです。

「自分には関係ない」と線を引くことは、一見合理的ですが、そこにあるはずの「連帯感」や「共感」を根こそぎ奪い去ってしまいます。

また、家族や恋人といった親密な関係においても、課題の分離は大きな壁となります。

相手が悩んでいるときに「それは君の課題だから、僕が悩むことではない」と突き放す。

これが果たして「愛」なのでしょうか?

私たちが求めているのは、スマートな境界線ではなく、「泥臭く一緒に悩んでくれること」ではないでしょうか。

アドラーの言う「課題の分離」は、対人関係のストレスをゼロにするための「極論」です。

しかし、その境界線はあまりに鋭利すぎて、人間が本来持っている「他者と痛みや喜びを分かち合う機能」までをも切り捨ててしまっています。

これでは、悩みがなくなる代わりに、「豊かな人間関係」そのものまで失ってしまうことになりかねません。

まさに、角を矯めて牛を殺すような「トンチ」による解決法だと言えるでしょう。

共感できないポイント③:承認欲求を否定することの矛盾

「承認欲求を捨てなさい」というアドラーの教えは、もはや現代を生きる我々にとって「呼吸をするな」と言われるに等しい無理難題です。

哲人は、他人の期待を満たすために生きることを否定し、承認を求めることは不自由への道だと説きます。

しかし、この主張には人間が社会的動物であるという生物学的な前提がすっぽりと抜け落ちています。

そもそも、承認欲求は単なる「見栄」ではありません。

集団の中で認められることは、生存確率を高めるための本能的な欲求です。

特に、生まれた時からSNSがインフラとして存在する若者世代にとって、他者からの評価や反応は、自己の存在を確認するための大切なフィードバック回路になっています。

それを一言で「不健全だ」と切り捨てるのは、

「空腹なのは食欲があるからだ。食べたいという欲求さえ捨てれば、飢えの苦しみから解放される」

という、極めて非現実的なトンチにしか聞こえません。

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マズローの欲求階層説を持ち出すまでもなく、承認の先には「自己実現」があります。

誰かに認められたい、役に立っていると実感したいという欲求があるからこそ、人は努力し、技術を磨き、社会に価値を提供できるのです。

このエネルギー源を「不自由の種」として封殺してしまうアドラーの考え方は、個人の成長エンジンを破壊しかねません。

承認欲求をゼロにするのが「正解」なのではなく、承認欲求とどう上手く付き合っていくか、その「折り合い」こそが現実的な課題です。

アドラーの主張は、「虎が怖いなら、虎という概念を消せばいい」と言っているようなもので、論理的な美しさはあっても、実生活での救いにはなり得ないのです。

共感できないポイント④:全ての悩みは「対人関係」という極論

アドラー心理学において最も有名なテーゼの一つが、「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」という断定です。

非常にインパクトのある言葉ですが、冷静に考えるとこれほど強引な「こじつけ」はありません。

一休さんが「このはし渡るべからず」という看板を見て「端ではなく真ん中を歩けばいい」と返したように、複雑な人生の苦しみを「対人関係」という一つの窓口に無理やり集約させているように感じられます。

例えば、不治の病に冒された時の恐怖や、自分自身の死に対する実存的な不安はどう説明するのでしょうか。

アドラー流に言えば「それも他者と比較するから苦しいのだ」となるのかもしれませんが、一人の人間が暗闇の中で直面する「死」の恐怖は、決して他者との比較で生まれるものではありません。

あるいは、誰もいない無人島で遭難したとき、飢えや寒さに震える苦しみは「対人関係」が原因なのでしょうか?

また、クリエイターが「もっと高い表現をしたいのに、自分の才能が届かない」と悶々とする自己実現の壁も、必ずしも他者の視線を意識したものとは限りません。

自分の中にある理想と現実のギャップ、つまり「自分との対話」における悩みも存在するはずです。

それらをすべて「対人関係」という箱に詰め込むのは、論理をシンプルにするための思考の省略に過ぎません。

すべての悩みを無理やり人間関係に帰結させることで解決策を一つ(課題の分離)に絞り込む手法は、パズルとしては見事ですが、現実の多様な苦しみをすくい取るにはあまりに網の目が粗すぎます。

この「何でもかんでも対人関係のせいにする強引さ」こそが、読者が感じる「トンチ臭さ」の根源なのです。

なぜ「嫌われる勇気」は売れたのか?

ここまで「共感できない」と書き連ねてきましたが、一方でこの本が世界的なベストセラーとなり、多くの人を熱狂させた事実も無視できません。

なぜ、これほどまでに「トンチ」のような極論が支持されたのでしょうか?

その理由は、この本が「正論」ではなく、現代人にとっての「強力な精神安定剤(麻酔)」として機能したからだと言えます。

  • 責任感に潰されそうな人への救済: 「全部自分のせいだ」と思い詰めている人にとって、「それは他者の課題だ」という極論は、強制的に思考をシャットダウンさせる救いになります。
  • 対話形式の魔力: 読者が抱くであろう反論を、作中の「青年」がすべて代弁し、それを「哲人」が論破していく。この「論破のエンターテインメント性」が、読者にわかったような気にさせる快感を与えました。
  • 「勇気」という言葉の責任転嫁: 全てを勇気の問題に集約させることで、複雑な社会問題を「個人のマインドセット」というシンプルな問題にすり替えたのです。

つまり、アドラー心理学は科学や心理療法というよりは、「人生をサバイブするための極端な思考のハック術」だったからこそ、閉塞感のある現代で爆発的に受け入れられたのでしょう。

まとめ

結論として、私が「嫌われる勇気」に共感できなかったのは

「人間の弱さや複雑さを無視した、あまりにスマートすぎる解決策」

だったからです。

一休さんのトンチは、聞いた瞬間は「なるほど!」と膝を打ちますが、実際に虎を捕まえられるわけではありません。

アドラー心理学も同じです。

理屈は通っていても、私たちの心にあるドロドロとした感情や、過去の重み、他者との切っても切れない繋がりを解決してくれるわけではないのです。

もしあなたがこの本を読んで「全然共感できない」「自分がおかしいのか?」と悩んでいるなら、安心してください。

共感できないのは、あなたが「他者との関わりを大切にし、自分の感情に正直に生きている」という、人間らしい感性を持っている証拠です。

アドラーの教えは、信じ込むための「教典」ではなく、人生の苦しい局面で使える「極端な道具箱」程度に捉えるのが正解です。

全部を鵜呑みにせず、「ここは使えるけど、ここは屁理屈だよね」と笑い飛ばすくらいの距離感が、現代の若者にとっての本当の「勇気」ではないでしょうか。

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